2010年03月04日(木)
愛のほんとうの意味
ノーベル平和賞受賞者、マザーテレサは、1997年9月5日、87歳でこの世を去った。1981年6月、世界宗教者平和会議の招きで来日され、講演会が開かれたのを記念して「マザーテレサ その人と愛」という写真展が、小田急百貨店で開催された。
私はそのとき、はじめてお目にかかる機会があり、マザーテレサの口から次のような言葉を聞いた。ご自身の仕事について語られたとき、『私のような老人は、ニューヨークでもロンドンでもニューデリーでも東京でもたくさんいます。一人暮らしの老人が死後何日もたって発見されたり、隣に住んでいる人が病気なのに名前も知らなかったり、ね。私は、そういう貧しい人につかえるために、いつでもどこへでも飛んでいき続けるつもりですよ。』と、なんの気負いもなく、さらりと言われたのを忘れられない。
私はマザーテレサの言葉と、金光大神の『願う心は神に届くものである。天地金乃神は、くもが糸を世界中に張ったのと同じことである。糸にとんぼがかかればびりびりと動いて、くもが出てくる。神さまも同じことで、空気の中にずっと神の道がついているから、何百里あっても、拝めばそれが神に届く。女郎ぐものとおりである。』(伍賀慶春の伝え)の御理解が私のなかで重なった。
マザーテレサは講演のなかで『飢えている人がいます。でもそれは、パンがないためではありません。愛、思いやりへの飢え、だれかの「自分」でありたいという思いがみたされない飢えなのです。裸の人もいます。服がないということではありません。見ず知らずということだけで、やさしい心づかいをしめしてもらえないという意味で裸なのです。
でも、それらの人びとに話すことはできるだけ少なくしましょう。説教してきかせても、それは人とふれあう場にはなりません。ほうきをもってだれかの家をきれいにしてあげてごらんなさい、そのほうがもっと雄弁なのですから‥。』と語られた。数百人の聴衆に語られたのだが、そのとき、私は私一人に語られているように思わせられた。
私は、それまで「語ること」が助けることになると思いこんでいた。けれども、マザーテレサは「人びとに話すことはできるだけ少なくしましょう。‥ほうきをもってだれかの家をきれいにしてあげてごらんなさい。」と語りかけられ、まさに「目から鱗」の思いがした。
いかに雄弁を振るっても、いかに美辞麗句を並べても、「飢えている人、裸の人を救うことはできない」と断言された。その言葉を聞いた私は、自分の御用を根本的に改まり、自分のいのちをかけての道開きとは、どういうことかを分からせられた。
シンガポールで会議に参加した時、コーヒーブレイクで、たまたま立ち話をする機会があり、マザーテレサが「豊かそうに見える日本で、心の飢えはないでしょうか。だれからも必要とされず、だれからも愛されていないという心の貧しさ。物質的な貧しさに比べ、心の貧しさは深刻です。心の貧しさこそ、一切れのパンの飢えよりも、もっともっと貧しいことだと思います。豊かさの中で貧しさを忘れないでください。」と、しんみりとおっしゃったことがある。
愛するということのほんとうの意味を教えられた。マザーテレサの名刺の裏には次のような言葉が記されている。
『沈黙の果実は祈り 祈りの果実は信仰 新興の果実は愛 愛の果実は奉仕 奉仕の果実は平和』と。
マザーテレサの一言一言のなかに深い味わいがある。信仰の相違を超え、彼女の言葉に私たちが今月今日生かされている意味を分からねばならない。
『金光様は、「たとえ、この身は八つ裂きの仕置きにあい、村々辻々に曝し者となるようなことがあっても、私の屋敷に青草が生えるようになっても、少しもいといません。世界の氏子が、生神金光大神、と真心で一心に願えば、どのような願い事でもかなえてくださいませ」と願っておられた。』(金光教教典736ページ)とあるように、このお道のご信心をいただく者はみな、「助け一途」という御神願を日々の生活にあかししていかなければならない。
助けには条件はない。いつでも、どこでも、どんなことでも、「願えば叶う」というのが金光教の信心である。
(「ル・ポン」原稿より)
Posted by 三宅美智雄 at 18時13分 トラックバック ( 0 ) コメント ( 0 )
トラックバック
トラックバックURL
http://konkokyo.org/php/a-blog/tb.php?ID=1520



