2010年03月05日(金)
限りない進展 [いのちの言葉]

この世に生を享けるということは、自分の考えではない。なにもかも「与えられる」のである。そして、だれもが死んでいく。好むと好まざるにかかわらず、人間は死んでいく。これも自分の「いのち」でありながら、自分の思うとおりにはならない。与えられる「いのち」である、死んでいくのも「死なせていただく」のである。
しかし、自分の生き方が「我情我欲」のままに生きていると、「生まれる」から「滅びる」道になってしまう。死は「滅ぶ」のではない。いのちが完全燃焼していく、その末は「滅び」ではなく、次の「いのち」へと繋いでいく生命の継承である。
人は誰しも、人生の途中で、さまざまな挫折を味わう。挫折がきっかけになって、新生へ、再生へと「いのち」の新生を繰り返していく。その生き方は「奉仕と報恩」である。他者への奉仕、報恩積徳の生き方には、「滅び」はない。必ず限りない喜びの再生が約束されている。
死とは何か? 生とは何か? これは大きい問題であるには違いないが、人間が自分で、いくら考えても答えはでない。自分の生涯を「他者への奉仕と報恩」に徹してこそ、そこに与えられるのが「永世のいのち」である。金光教では、それを「生神」と呼ぶ。
生神というと、「生きながら神になること」と思われがちであるが、永世のいのち‥死なないいのち、滅びることのないいのちである。金光教教祖は「生神とは、ここに神が生まれるということ」と教えている。
この「生神」こそ、われわれの「目指すいのち」である。世界中に「金光大神でき」とおっしゃっておられる。すなわち、生神とは、限りない展開なのである。永遠に続くいのちと申し上げてもよい。
Posted by 三宅美智雄 at 16時33分 トラックバック ( 0 ) コメント ( 0 )
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