2010年03月09日(火)
千日願を行ず [いのちの言葉]

今年の信行テーマにもなっている「千日願」が、掛け声だけになっていないだろうか‥。教会がそれに、どう応えているのだろうか‥。いま、「ル・ポン」の裏表紙に連載されている「2013年の君へ」というページは、わかばたちが順番に寄稿しているが、2013年は「お道開き50年」のお年柄であることをご存知の方が、どれほどおられるのだろうか‥。
その2013年を目指しての「千日願」であります。正確に申せば、1,000日以上あるのだが、先生は今年の元旦祭にも、そのことに触れて教えられていました。そうとして、あなたは、この1,000日をどのような「構え」で行じておられますか?
私は「真一心」と「たちまちのおかげ」という二つの柱を立てて千日願を行じております。
教祖さまの直信に鳩谷古市という人があります。この方が伝える金光大神さまの御理解に『氏子、ほれるということは、じゃらじゃらしたことのようなが、これは実に結構なることであるぞ。ほれたとなると、ほれた人のためには、たとえ自分の命が果てるとも、火の中、水の中でもいとわぬと思うものであるが、たとえほれても、人の女房にはほれるな。大工、左官、職人ならば、親方にほれよ。親方にほれたら、何でも親方の言うことをよく聞き、横着気のなきものなり。そうすると、親方もこれを見て、この弟子は実に横着気のなきやつ、何でもよく言うことを聞くやつじゃ、かわいいやつであると思う。そして、ほめながらかわいがり、何でもこれには早くしこんで教えてやりたいと思い、つい、うまい物でもあれば、やる気になるものなり。
また、神様にも信心して、ほれこめ。実の一心に思いこんでみよ。何事も、おかげは思いこみ一心からかなうものなり』と仰せられ候ことなり。
この御理解を読み、あなたはどう思われますか? 私は、金光大神さまが目の前におられるような気持ちになります。実の一心、すなわち「真一心」ということを、これほど分かり易く教えられていることに、私はたとえいま、どんなに暗くてつらい場であっても、「先が明るい」生き方を教えられていると思います。
世の中には、助かり難い人、めぐり深い人が少なくありません。それを神さまが「助かってくれよ」と、その人の身にまとわりついて、泣いて頼んでおられると思います。ところが、その親神さまに背を向けている人、その御神願を足蹴にしている人の、なんと多いことか‥。
私は、そういう人たちに成り代わって、「実の一心」「真一心」の行願をさせていただきたいと願っています。口で言うのは楽ですが、何を言うてもそっぽを向いている人に成り代わるということは大変です。その大変さが「実の一心」「真一心」の出発点なのです。48年前、裸一貫で東京助けに差し向けられた私に、師匠は「アホでもできるいっしょけんめい」と教えられました。それを、この千日願の真柱にしていきたいと思います。
もう一つの柱は「たちまちのおかげ」ということです。よく「おかげ目当ての信心は、おかげ信心と言うて、ほんものではない」と言われます。けれども、私は信心をさせていただいて、「おかげいただけない」というのは、その信心が怪しいと思います。どんなことでも、われわれの願いは「待ったなし」なのです。
神さまもまた「待ったなし」という構えをされていると思います。しかも、「おかげをこうむるのには、言い訳なし」と思っています。おかげをいただくのには、筋道はいりません。理屈は不必要です。『神信心してみかげのあるを不思議とは言うまじきものぞ。信心してみかげのなき時は、これぞ不思議なることぞ』(金光教教典 「道教えの大綱」 774ページ)とありますように、私はお願いすれば、「たちまちのおかげ」をいただくと信じています。
待ったなし、言い訳なし、神人一如、真一心で信心をさせていただけば、「たちまちのおかげ」をいただけるということを証していくことが、道開きであります。
Posted by 三宅美智雄 at 10時29分 トラックバック ( 0 ) コメント ( 0 )
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