話をするということ

口は三つで、耳一つ

青壮年教師有志先生方の研修会が開かれ、おゆるしをいただいて傍聴する機会恵まれた。そのなかで、お話の稽古があって、一人の先生が15分間のお話をされた。私も話すことを長年続けてきたので、お若い先生が緊張されながら話されているお姿を拝聴し、自分の若かりしころのことどもを思い起こし、年甲斐もなく汗をかいて聞かせていただいた。上手に話すこともできず、美辞麗句を並べたり、筋道の通ったお話ができない私は、聞いている人のこころを揺さぶるような話をこころがけている。

私は「日記」のほかに「教話メモ」「夢ノート」「如是我聞」などのノートをつけている。数年前までは、日に何度もお話をさせていただいていたので、日々「教話のレジュメ」(話の要点)をつけいた。「夢ノート」は、いまも枕もとに置いてある。目をさまして、すぐにノートにつけるのだが、後で読んでみてもサッパリ分らぬものもあるが、断片的にでもノートに記しておくと「神夢」のありがたさに感動することも少なくない。「如是我聞」は、本や新聞などで出合った一言、人さまの話を聞いて、「なるほど」と頷いたこと、ラジオやテレビで見聞きした感銘のことばなどをノートに記している。

仏教の高僧が「観」という字は、ただ見るという字ではない。「観音」というのは「音をきく」ということで、「観」は目だけでなく、耳も働かせることがいると教えられている。お道では「どんなことでも、願え」と教えられているが、取次者は「観」に徹することがいると思う。すなわち「よく観て」「よく聴く」ことが基本である。

教師は、この道を説く「教話」をしたり、お結界で「御理解」(教えをする)をする。信者は「聞く一方」で、教師は「語る一方」のように思われがちであるが、実際は、まるで「逆」である。「聞いて聞いて聞きぬくこと」が取次者の姿である。いや、教師ばかりではない。信者も、ちょっと信心すると、「語り上手」になって、「聴く耳・観る目」を失うことが多い。

神さまが、「口一つ、耳二つ、目二つ」をお与えくださっているのは、「言う倍は聴け」「言う倍は観よ」ということだ。教師になる、信徒の役員になると、「口は三つで、耳一つ」口は三つで、目は一つ」という「お化け」になる人が多い。饒舌な人ほど、人の言うことを聞かない…洋の東西を問わず、宗派の相違を超えて、信心熱心な人や宗教家に「お化け」が少なくない。ある先師は「見ること 見ること 自分を見ること」と教えられた。日々このことを自身に言い聞かせている私である。

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