21日は、初代教会長三宅美智雄大人のご命日です。大人を偲び、遺稿を掲載いたします。

三宅美智雄大人

心身を鍛える 信心親切のすすめ

地獄と極楽

物質的に豊かなこんにちの社会では、「自分さえよければ他人はどうなろうとかまわない」というのが風潮のようです。まさに「モノで栄えて、心が亡びる」と言われる所以でしょう。
こんなたとえ話があります。ある人が「地獄」見物ツアーに行ったそうです。地獄はちょうど昼時で、大きなテーブルをはさんで人々が今まさに食事を始めようとしています。テーブルには山海の珍味が並べられています。人々にお箸が配られました。なんとその箸は長さが1メートルもありました。「いただきます」と言うやいなや人々は目の前のご馳走を箸で取るには取るが、1メートルの箸では自分の口にご馳走が入りません。ご馳走を目の前にして四苦八苦しています。その光景を見た人は「ああ、なんとかわいそうに…」と思いました。

その足で、その人は「極楽」見物に行ったのです。極楽は地獄と違ってさぞやすばらしいだろうと想像していたその人は驚きました。テーブルから食事まで、今見てきた地獄と寸分違わないのです。お箸までが1メートルではありませんか。「これじゃ、地獄と同じではないか」と思いました。やがて人々は「いただきます」とお祈りをした後、テーブルの上のご馳走を箸でつかみました。そして、なんと向かい側に座っている人の口に運び、互いに楽しそうに食事を楽しんでいるではありませんか。
すべてが同じであるのに、地獄では自分が食べようとして苦しみ、極楽では相手に食べさせて自分もたべさせてもらい、食事を楽しんでいるではありませんか。これは「たとえ話」ではありますが、大いに教えられるお話ではありませんか。

世のお役に立つ人間

金光大神は『人が人を助けるのが人間である』『人の難儀を助けるのが人間である』と教えられています。人という字は、互いに「支え合って」います。自分一人が生きているのではないのです。生かし合ってこそ、今の自分があるのです。
「われひと共に立ち行く」と言われています。正確には「ひとわれ共に」であると私は思います。というのは「ひと」を助けることによってこそ、「われ」の助かりがはじめて実現できるからです。「われさえよければ…」は、地獄の世界です。
「好きなこと、楽しいこと」を自分が先にするのでなく、「ひと」を優先させるとき、はじめて「われ」が生かされるのです。「自分がしてほしいと思うことを人にしてあげなさい」と古哲は言っています。

新生児の「初参拝」(お宮参り)のとき、私は神さまに「分け御霊」をいただいたことをお礼申すと同時に、「どうぞ、世のお役に立つ人間にならせてください」とご祈念しています。知能と体の発育だけではほんとうの成長とはいえません。お役に立つ人間になるために「心身を鍛える」ことがいちばん大切だと思います。
心身の成長のバランスがとれていないことが「犯罪の低年齢化」につながり、「家庭内暴力」を生み、「不登校の増加」にもつながっていると思います。

信心親切

そこで、ちょうど「夏休み」になりますから、親子がそろって「信心親切」の実践をすることを勧めます。基本は「世のため、人のため」になることを自発的に「無償」で実行することです。代償を求めない汗ほど尊いものはないことをみなで学習することです。
今月は「全教いっせいの社会活動月間」でもあります。自分がひとりで生きているのではなく、生かされて生きているということを親子で分かり合い、お役に立つには「何をしなければならないか」「何ができるか」「何をしてはならないか」を話し合って、身近な「信心親切」運動を展開していきましょう。

お盆休みの家族旅行の計画も楽しいことですが、せめて半日でも家族が揃って「社会奉仕」に汗を流すようなプランを立ててみてはどうでしょうか。公共の場、たとえば道路とか公園の清掃をするとか、困った人たちのために、何かお役に立つことを喜んでさせていただくとか、力をあわせて、いわゆる「信心親切」の実践をさせていただくことが徳積みになります。

(ル・ポン 平成12年7月号 通号308号「いのちの言葉」より)

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