初代教会長を偲んで

21日は、初代教会長 三宅美智雄大人のご命日です。大人を偲び、遺されたみ教えを掲載いたします。(常盤台教会WEBサイト中の「いのちの言葉」より)

安座することの恐さ

信心しておかげを受けるのですが、おかげを受けたら、そのおかげのなかに願いこめられている御神願をしっかりと受けさせていただかねばなりません。 私は「おかげのなかに願いあり」と、常に申しているのは、ほとんどの人がおかげの「食い逃げ」をしているからです。おかげをこうむったら、お礼の信心を一段と強めていく努力と同時に、信心の成長をさせていただかねばなりません。おかげをいただいたときこそ、信心成長のチャンスなのです。

おかげをいただいていると、つい「わたしが、おれが」という我の心が出てきて、成長が止まってしまうことが少なくありません。 私の知っているお方で、それこそ「おかげのお手本」のようなおかげをこうむった人がいます。無一物のなかから、人の真似のできないほどのおかげの頂点を極めたような人です。この人のことを「今のおかげに安座していては恐い」と警告を発した人がいましたが、私なども、その真意が分からず、「これほどのおかげが崩れるはずはない」と思っていました。 ところが、この忠告のとおり、この人はまさに「おかげの上に安座」してしまい、ご恩を忘れて思い上がり、贅沢三昧の生活をしていました。 おかげをこうむるのも早かったけれども、崩れていくのも早かった…。あれほど繁盛していた商売に躓(つまづ)き、家族にも見放されて、奇しくも教会から程近い老人擁護病院に収容されたその人を見舞いに行った私は、見る影もなく変わり果てた姿をみて、涙が止まりませんでした。子どもたちにも信心を継いでもらえず、ただ一人、孤独の死を迎えたその人はお葬式を出す人もなく、実に哀れな生涯でした。 私は教会にご遺体を引き取り、ご葬儀から納骨までお世話をさせていただきましたが、「今太閤」と誉め称えられた人の末路をこの目でみせていただき、忘恩の恐ろしさ、安座の恐さを痛感しました。

しかし、これは特別な例ではないと私は思います。おかげをいただきながら、おかげに甘え、おかげの上に安座してしまうのは、人の常ではないでしょうか。 言葉として「生かされて生きている」と、だれしもが申しますが、ほんとうに自分が支えられてこそ生きていることに気付いて欲しいと思います。祈られてこそ、生かされてこそ、許されてこそ、今の自分があるということが信心の出発点であるということをよくよくお分かりください。

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